進歩と退化

研修医の頃、入院治療が必要な子どもの病棟を受け持っていると、外来をしている年輩の先生から連絡が来ます。「1歳の肺炎の子どもが入院するから受け持ちお願いね(担当医になってね)。これからレントゲンを撮って病棟に上がるから、点滴を入れて血液検査もね」「わかりました」。大抵こんな感じだったと思います。つまり外来の段階では、問診と診察のみで「入院治療が必要な細菌性肺炎がある」と判断していたことになります。直接そうは教わりませんでしたが、呼吸の速さと全身状態への直感からそのような判断をなさっていたのでしょう。その後で撮影されたレントゲンを見ると確かに大きな肺炎の影がありますし、血液検査では炎症反応が高くなっているのです。
呼吸の速さということだと、産まれた翌日の新生児を診察する回診に行くと、助産師から「ちょっと呼吸が速くて、少し“くすんだ”体色の赤ちゃんがいるから早めに診察してほしい」と言われたことがあります。言われて見ると確かにやや呼吸は速いかもしれませんが、呼吸が苦しいサイン(陥没呼吸)はありませんし、一見してわかるようなチアノーゼもありません。半信半疑で先輩医師に連絡して超音波検査をしてもらうと、完全大血管転位症という心臓の病気でした。
点滴を入れる(静脈に点滴針を留置する)処置のとき「小児科医であれば、見えている静脈はもちろん、見えないけれど指先で触れてわかる静脈にも入れられなければいけないし、見えもせず指先で触れもしないけれど“ここにあるはずだ”という位置にある静脈にも点滴を入れられなけれいけない」「更に、点滴の達人とは、見えもせず指先で触れもせず、それどころか“ここにはあるはずがない”という位置にある静脈にも点滴を入れられる人だ」と教わりました。
その頃から20年以上が経ち、レントゲンと血液検査をせずに肺炎の診断をして入院させる小児科医などもういないでしょう。新生児にはルーティンで酸素飽和度を測定しますし、点滴を入れるときには静脈を透過させるライトで血管を視認して行ないます。これらのことを否定はしません。より確実で効率的になりますし、「誰がやっても同じ判断、同じことができる」のは大切なことだと思います。ただ、確実で効率的なことを誰でもできるようにシステムを整えたとき、人間は他のもっと重要なことにエネルギーを注げるようになって社会が進歩するかというとそうではなく、逆で、人間は怠惰となり社会は退化するのではないかという気がします。AIなんぞに喜んでいる人には「手塚治虫がもう数十年前には描き切っていた近未来=ディストピアがどんなものか、知っているのか」と問いたいくらいです。
“風邪”の診断をするのにもウイルスの検査が必要で、子どもが泣いたり暴れたりで酸素飽和度が測定できないと呼吸状態が良いか悪いか判断できなくなっている最近の小児医療を見ているとますますそう思うのです。前述の新生児室では「観察者の目」を養うために酸素飽和度をルーティンで測定することをせず先輩から後輩の助産師へ厳しい教育がなされていましたし、中田英寿さんは「使う人間の能力を下げてしまうから」という理由でスマホを使わずガラケーを使いつづけていました(いまはどうしているかわかりません)。ただし、もう時代は後戻りしないでしょう。私の感性は時代に合わなくなってきています。「老兵は死なず、ただ、消え去るのみ」。この言葉を思い出しています。