イタリア紀行

サルデーニャ(Sardegna)

ゲーテ、スタンダールから和辻哲郎まで、イタリアを旅して紀行文を残した著名な作家は枚挙にいとまがない。ただ、すべてを読んだ訳ではないけれど、古代ローマ文明やルネッサンス文化の遺産に溢れたこの国を鑑賞する文化人としての高尚な立場からの、何不自由ない旅の記録といった感じがしてしまう。

最近翻訳が出版されたD.H.ロレンスの「海とサルデーニャ」(ちくま文庫)を読んだ。カラブリアを旅したG.ギッシングの「南イタリア周遊記」(岩波文庫)と同様に、舞台はいわゆる文明や文化の遺産とは程遠い南イタリアの辺境で、不便や不具合の多い旅だったようである。田舎のどうしようもなさというものが繰り返し描写されもするが、それでも強く心を打つ作品となっているのは、著者が土地やそこで暮らす人々に対して限りない愛おしさをも抱き、同じ人間として同じ視線の高さから、いきいきとそれらを描写しているからだろう。

「男たちは座席に寝そべってゲームに興じ、大声を上げたり眠りこんだり、長いストッキング帽をかぶりなおしたりしている。つばを吐く。こんな時代でもまだ、のっぴきならない自己の一部分として長いストッキング帽をかぶっているのはすばらしい。しつこい強烈な頑固さの証しだ。彼らは世界意識の侵入を許さない。世界共通の服を身にまとうこともないだろう。荒く、いきいきと、意を決して、暗く粗野なおのれの愚昧に固執して、大きな世界が勝手に文明世界の地獄へと向かってゆくのを放っておく」「均質的な世界一体化なぞまっぴらだ」「人びとが、おなじに見えること、おなじになることをはげしく嫌って、活気あふれる部族や国家にわかれればいいと思う」「僕はサルデーニャ山中の征服されざる荒くれどもを愛する。彼らのストッキング帽と、燦然と動物的輝きを放つ愚昧とを愛する。均質化の最後の波が、その見事なまでのとさかを、帽子を押しながすことがないように、切に祈る」(D.H.ロレンス「海とサルデーニャ」)

私もかつてこれらの地方を旅した。サルデーニャの州都カリアリ(Cagliari)の街や市場の様子は「海とサルデーニャ」の20世紀前半と変わっていなかったし、カラブリアの都市クロトーネ(Crotone)では「南イタリア周遊記」で著者の宿泊先として登場するホテルに私も泊まった(それ以外のホテルの選択肢がほぼ無いところだったのだ)。いろいろと記憶が断片的には出てくるものの、見たことや聞いたこと、感じたことや考えたことを記録に残すことをしなかったのが惜しい気がしている。「均質的な世界一体化なぞまっぴらだ」のような言葉を書き留めておきたかった!

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