言葉にならないもの

東京都美術館で「アンドリュー・ワイエス展」を鑑賞しました。子どもの頃、新聞の日曜版に世界の名画を連載する企画があり、あるときこの20世紀アメリカの画家の代表作「クリスティーナの世界」を目にして、その強い印象が残っていました。
美術館で一つ一つ絵を巡っていると、いつのまにか時間を忘れているのですが、最後まで回り終えると、ため息が漏れます。なぜ自分には、絵を描く才能が無かったのか。
その才能が無かったのに、高校生までは、本気で絵描きになるつもりでいました。絵を描くことが好きだったのは間違いありません。「生活していくために、何をするか」「それで生活していけるか」という発想が無く、周囲からもそのようには言われなかった(何をせずとも生活できる資産があったからということではなく、勉強はできたので、職にあぶれない進路を何だかんだ選んでいくだろうと思われていた)からかもしれません。私が小学生のときに死んだ母が趣味で絵を描く人で、生前は一緒によく描いていましたから、絵筆を握ることは母の記憶と繋がることでもあったのだと思います。
今になって感じるのは、心の中にある「言葉にならないもの」を表現すること、特に、目に見えるかたちで表現することを、何かしら欲していたのではないかということです。幼児期に言葉の発達が遅く、発音も不明瞭で、引っ込み思案で、「自分がどんな気持ちなのか、それが頭の中で言葉になる、そしてそれを言葉として表出する」ということが少ない子どもだったと思います。学校に通い始めてからもいま以上に寡黙でしたし、国語のテストで「下線部分の主人公の気持ちを選びなさい」とかがあったりすると「どれも正しい気がする」「どれも完全にはぴったりこない」と混乱して、「気持ちって、そんな感じで扱っていいの?」「僕の気持ちを、こんな風に扱ってほしくはないな」と感じた記憶があります。当時は園や学校でもそのような子どもを(特に、勉強ができるのであれば)問題視することはなかったですから、基本的に穏やかに過ごすことができましたが、日常の折々に感じる「言葉にならないもの」を心の中にしまい込んでいたのだと思います。
外来をしていると、この子どもも同じような感じなのではないかな?と思うことがあります。それを「発達特性がある」とか「発達障害の特徴を部分的に持っている」とかいうようにまとめてしまうことは、確かにできなくはないけれど、何だかちょっとどうなのだろうと感じます。そのような捉え方をすることが、どうにも上手くいかなかった事態を好循環に導くことがあったり、どうにも深い悩みにとっての救いになったりすることはありますが、余りにも雑に、便利に、それをし過ぎないように注意したいと思っています。
