リスクを減らすこと、リスクを取ること

10月1日からインフルエンザの予防接種を開始します。乳幼児や一部の学童児(熱性けいれんの既往があるなど)が重症のインフルエンザ脳症に罹患するリスクを減らす効果はあり、一方で、長きにわたって接種が行われてきたなかで頻度が高かったり深刻だったりする副作用は生じていないと私は考えますから、できるだけ多くの子どもに接種ができればと考えています。
私たちは子育てにおいて、できるだけ子どもに襲いかかるリスクを減らそうとします。どんなにそうしてもリスクはゼロにはなりませんし、一つのリスクを避けたと思ったら次のリスクが襲ってきますし、一つのリスクを減らそうとすることが別のリスクを高めてしまうというようなこともある訳ですが、それでも目の間にあるリスクを取り敢えず減らそうとします。
ですが、よく考えてみると、生きていること自体がリスクと言えなくはないわけですし、結局はどこかでリスクを取ることをしながら人間は生きていきます。リスクを減らすのではなくそれを取る傾向が特に顕著となるのは思春期から青年期にかけてですから、私たちは独身時代に、自分自身を「リスクなど気に留める必要のない、強い存在である」「何でもすることのできる、自由な存在である」と感じていたはずです。ところが、子どもが産まれると急に、随分と臆病になってしまうのです。それはどうしてなのか。産まれてきた子どもがあまりにも無防備で弱い存在であるということを目の当たりにするところから、育児というものが始まるからなのかもしれません。
イタリアの作家ナタリア・ギンズブルグに「破れ靴」というエッセーがあります。幼少期は家庭で常にやさしく注意深い愛情につつまれて育った(=リスクを減らす配慮がなされている家庭で育った)作者は、青年期、親元を離れ、ドイツ占領下のローマで、窮乏した生活を送ります。ただ一足しかなかった靴がいったん破れてしまうと足の裏に感じる舗装道路は冷たく、水が入ってくると一歩ごとにその靴はぴちゃぴちゃと音を立てたのですが、その頃を作者は「私にとって大切な時代」と回想します。破れて水が入ってくる靴を履くなんてとんでもない(けがや病気のリスクが高まってしまう)という親の価値観を離れて自由になり、靴が破れても生きていけること(=自分が強い存在であること)を知ったからです。しかし、ここで終わらないのがこのエッセーの非凡なところで、そんな作者が今度は自分が親として子どもを持つことになった後の心情を最後にこう綴ります。
「私は時計を見て、時間に気をつけ、何ごとにつけ用心深く注意深くなり、子どもたちの足がいつも乾いて、あたたかくなっているように気をつける。少なくとも子ども時代は、それがわずかでも可能ならば、そうであるべきことがわかっているから。おそらく、できれば、のちに破れ靴で歩くことを学ぶために、子どものときは足が乾いてあたたくしていられるのがいいのだ。」
このようなものの見方は大いに学ぶべきものだと私は感じます。子どもが大きく強くなってからもリスク徹底回避の思考を全く変えないのはそれはそれでちょっと問題ですが、まだ子どもが小さく弱いうちは、私たちは多少「過保護寄り」くらいでいいのではないかと思います。
