定型発達の限界
神経発達症(発達障害)の特性を持った子どもの親御さんは、ご自身のお子さんが定型発達の子どもがすることをしなかったり定型発達の子どもがしないことをしたりすることに悩まれることがしばしばあります。そんな親御さんに、私の大好きな漫画「ガラスの仮面」の一場面をご紹介します。
舞台女優を目指す主人公の北島マヤはコンクールで「たけくらべ」の主役「美登利」を演じることになりますが、ライバルである姫川亜弓が美登利を完璧に演じるのを見てしまったためひどく落ち込み自信を失い、師匠である月影先生に謹慎を命じられます。謹慎するなかで次第にもう一度舞台で演じたい気持ちが戻ってきたマヤと月影先生の会話があります。亜弓の演じる完璧な美登利=定型発達の子どもの(完璧な)発達、と読み換えてみてください。
「お…おしえてください!どうすれば…どうすれば亜弓さんよりうまく美登利を演じられんですか、おしえてください先生!」「亜弓さんはたしかにすばらしい天分をもっています。完璧な美登利を演じるでしょう。原作の中から生れ出たような美登利そのものを…。完璧な美登利、それが天才の才能の限界です。けっしてそれ以外のものではありえないのです」「それ以外のもの…」「そしてそれがあなたにのこされたただひとつの勝利の可能性です。すなわちまったく別な美登利を演じること!亜弓さんのともちがうあたらしいタイプの美登利を努力してつくり出すことです」「あたらしい美登利…」「そしてそれが成功したときは完璧な美登利より、より強烈に印象にのこり、完璧な美登利をしのぐのに十分な可能性があるのです。けれど完璧な美登利を演じるよりこれははるかに苦しくむずかしいことです。どんなことがあってもついてきますね、マヤ?」「ええ!ええ!やります!あたしやります…どんなことになったって!」
「発達障害の子どもは大物になれますよ」ということではなく、定型発達にはない強みを見出し、はるかに苦しく難しくても、どんなことになったっていいという気持ちで、その子ならではのものを作り出すこと、そこに活路がある、ということです。ところで、未完のこの長編は、後半に行くに従って、実は亜弓の存在感が増していきます。血のにじむような努力を重ね、「天才の才能の限界」「それ以外のものではありえない」とまで言っていた月影先生からも認められるような、マヤの真のライバルになっていきます。大多数の他人と同じであること(あるいは大多数の他人と比べて相対的に優位であること)に満足してしまうようにさえならなければ、人はいつまでも変わりうるものなのだと思います。