それもまたよし

ゼッカ広路(Largo Zecca), ジェノヴァ

パターナリズムとは、知識や経験のある人がそれらのない人の「幸福」を心底願って「自分の考える最善」を(時には無意識に)押し付ける態度のことです。押し付けられた側も「経験や知識のある人の考える最善」を受け入れ「幸福」であると感じていると、一見して何も問題がありません。しかし、自ら考えて選んだり決めたりする機会が少なく、自由を行使する力を育まないでいると、深刻な社会生活上・精神生活上の危機に繋がることがあります。

大人と子ども、医師と患者、それらの関係においてパターナリズムはどうしても避けられないもので、そうすると小児医療というのは特にパターナリズムに陥りやすい状況ということになります。小児科医が子どもの「幸福」を心底願って「自分の考える最善」を献身的に行なうことが知らず知らず押し付けになり、かえって子どもや家族が自ら考えたり選んだり決めたりする機会を奪っていることもありえます。少しでもそうならないために大切になってくるのは、まずは「幸福」以外の価値観(「自由」など)も大切にすること、そして「複数視点からの最善」を意識すること、更には「最善」を目指さない(こだわらない)こと、ではないかと思います。一言で言うと、相手の選択に対して「それもまたよし」と受け止めるということかもしれません。

”銀行家”広場(Piazza Banchi), ジェノヴァ

例えば予防接種がとても苦手な小学生がいて、親と話し合ったうえでそれまでは毎年していたインフルエンザの予防接種をしなかった、そうしたらインフルエンザに罹ってしまって結構大変な思いをした、というようなとき、予防接種の瞬間の痛みを2回我慢したほうが40℃が3日間続くよりは「幸福」だった、科学的にもインフルエンザの予防接種は効果と安全性が確認されているのだから接種することが「最善」だった、と結論していいでしょうか?生きていく上で遭遇するリスクについて子ども自ら考え親子で話し合って決断した(自由を行使した)という経験は、別のリスクに遭遇した際に生きてくるかもしれません。

最後に、パターナリズム的な振る舞いをどうしてもしてしまうこと(親子間、医者患者間など)、他人のパターナリズム的な振る舞いにどうしてもいらだってしまうこと(夫婦間など)、それらもすべて「それもまたよし」なのだと思います。

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