学校

コロッセオ(Colosseo), ローマ

以前にイタリアの小説家ナタリア・ギンズブルグの「小さな美徳」という題の子どもの教育についてのエッセーの一部を引用しました。50年以上前に書かれたものですが、現代の私たちが子どもの教育について考え、特に学校というものに向き合う際に目の覚めるような記載がありますので、今回はその幾つかを紹介したいと思います(理解しやすいように一部文章を補足しました)。

「親は学校をその小さく狭い枠のうちにとどめる(学校という小さく狭い枠の外に広い世界があると教える)ためにいるのであり、学校はいろいろの手段を提供するだけで、それらの中に明日役に立つことがあるかもしれない、という程度のものなのだ。学校は子どもにとって、一人で直面すべき最初の戦いであり、親はまったくその場しのぎの些細な助けの手を差し伸べてやるしかできない。子どもがそこで不正義に耐えたり理解されないでいるとしても、人生において私たちは絶えず理解されなかったり誤解されたり不正義の犠牲者になったりすることがあるのだから、それは何ら不思議なことではない。ただひとつ重要なことは、私たち自身が不正義を犯してはいけないのだ、と子どもにわからせることだ」

「学校で良い成績を取り、勉強に最大の力を注ぐ義務が子どもにはあるというのは嘘である。子どもの義務があるとすれば、単に、勉強を開始したのだからそれを続ける、ということだけである。もしも子どもの努力の最良のものを学校ではなくカブトムシの採集やトルコ語の勉強など、子どもが情熱を傾ける他のことに費やしたいのなら、それは彼らの自由であり、親はそのことで子どもを咎めたり、自尊心を傷つけられた、満足が破られたなどという態度を見せるどんな権利もない。目下のところ子どもの最良の努力を何においても費やそうという気配がなく、来る日も来る日も机に座って鉛筆を齧っているとしても、そんなときですら親は子供を怒鳴りつける権利はない。誰が知ろう、私たちには怠惰に見えることが実際は夢想であり省察であり、明日、実を結ぶかもしれないのだ」

「心にとどめておきたいのは、教育において、人生に対する愛が子どものなかで減少しないようにということである。その愛はいろいろ異なるかたちをとり、ときとして、意欲のない、一人ぼっちの、内気な子どもが人生に対する愛がないのでもなく、生きることの恐怖に押しつぶされているのでもなく、単に自分の天職に向けて自分自身を懸命に準備している待機の状態なのだ。親は子どもの傍らで彼の天職が目覚め、かたちをとるのを待ってやらなくてはならない。彼の傍らで、だが黙って、少し離れて、私たちは彼の精神の跳躍を待たなくてはならない。何も期待してはならない、彼に天才、芸術家、英雄もしくは聖人であることを求めてはならない」

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