同調圧力

バーリ(Bari), プーリア州

19世紀イギリスの思想家 J.S.ミルの「自由論」を読みました。個人の自由を社会や法律はどこまで縛ることが許されるのかを論じた本です。普段は読むのが遅いのですが、自分でも驚くほど一気に読み切りました。

「社会的専制はふつう、政治的抑圧のように極端な刑罰で支えられていないとはいえ、逃れる手段はより少なく、生活の隅々にはるかに深く入り込んで魂それ自体を奴隷化する」「社会には、社会自体の考え方や慣行に従わない人々に対して、そうした考え方や慣行を行為規範として、法的刑罰以外の手段によって押し付けようとする傾向がある」「社会の流儀に合わないような個性の発展を食い止め、できればそうした個性が形成されることを防いで、あらゆる性格が社会自体のひな形に合うように強制する傾向である」「個人の独立に対して集団の意見が干渉しても正当と言える範囲には限界線がある。その限界線を見出し、侵害に対してそれを守り抜くことは、政治的専制に対する防護と同様に、人間生活の健全な状態にとって必要不可欠である」

マスク着用をはじめとした感染対策やワクチン接種に関して「社会的専制」(昨今使われる「同調圧力」という言葉の意味に近いでしょう)が行なわれ、「人間生活の健全な状態」が損なわれ、その結果(私はそう思います)、この国の社会経済の衰退は一気に加速しました。

今になって「あのときは仕方なかった」「自分たちは客観的なデータを提示しただけだ(決めたのは政治で、選んだのは国民だ)」「推奨はしたけれど強制はしていない」と言う専門家がいます。自分たちの発信が社会的専制(同調圧力)を引き起こしうることを承知で敢えて煽る発信をした人や自分たちの発信が同調圧力を引き起こす快感に酔いしれていた人は多くなかったかもしれません。しかし、自分たちの発信は強力な同調圧力を引き起こしうるものであることを予測し、トータルとしてみると人間生活の健全な状態を寧ろ損なうかもしれないことを自覚し、最大限の客観性を心掛けるとともに、反対意見を封殺するのではなく積極的に議論をし、「私はこのように推奨するけれど、各人の判断は尊重されるべきで、少数意見に圧力をかけることは社会を崩壊させることに繋がるので決してしてはいけない」と強く言うべきであったと思います。

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