木に登りたい子ども
絶版になっていたボーヴォワールの「人間について」(新潮文庫)を古本屋で発見し、購入して読みました。読んだとは言っても私には哲学書を読む素養が十分でなく、半分も理解できませんでしたが、幾つか考えさせられる部分がありました。そのうちの一つです。
「ここにひとりの子供が木に登ろうとしています。親切で、おせっかいの大人が、その子供を地面から抱き上げて、一本の枝に上がらせてやります。子供はがっかりします。子供は木の上にいることだけを欲したばかりでなく、自分で登ることも欲したのであります」
この逸話を外来で紹介し、子どもの本当の希望を理解することの大切さと難しさについて親御さんと話し合うことがあります。この逸話のようなことを私たち大人はしてしまうものだけれど、すぐに手を貸したいのをちょっと思い止まって見守るだけにとどめたり、自分の背をかがめてそっと踏み台にさせるなどさりげなく手を貸したりもできるといいですね、と話します。
しかし、親御さんも自分自身の希望が満たされたい存在としての人間であって、私が親御さんの本当の希望を理解しそこねてがっかりさせてしまうことも起こりえます。例えば、子どもの希望がただ満たされるだけでなく「親御さんの思い描く手助けでもって」子どもの希望が満たされること、あるいは「親御さんが手助けしたことを子どもが理解(ときには感謝)してくれたうえで」子どもの希望が満たされること、などを欲する気持ちをお持ちの方もいらっしゃいます。そのようなとき、いつ誰からどんな風に伝えられるかによっては「そのような手助けは良くありません」と否定されたように感じられて、気持ちが落ち込んだり反発の気持ちが生まれることもあるでしょう。この逸話の教訓がすっと心に入ってくれる機会や場所がそれぞれの親御さんにどこか見つかってくれることを願いますが、それは子どもを患者さんとして対象とする小児科外来である必要は必ずしもないのではないかとも思っています。