子どもを褒める
「褒めて育てる」という言われ方がされることがありますが、「大人の思うように(都合のいいように)子どもを動かすためには褒めることが有効だ」というように理解されているのではないか(小児医療がそれを助長しているのではないか)と思うことがあり、気になっています。例えば、偏食があり園や学校で給食を食べない子どもが泣く泣く一口食べたら褒める、というようなことが「望ましい行動を褒めることでその行動を増やす」理想的な保育・教育なのだとみなされているのではと感じることが稀ではありません。確かに怒鳴りつけられるよりはましかもしれませんが、大人の思うように(都合がいいように)子どもを動かすために褒めるのではなく、子どものなかにポジティブなものが目覚め伸びていくために褒めることが「褒めて育てる」の本来の意味だと思います。
小学校1年生のときの国語の授業で作文を書く課題がありました。私は「原稿用紙1枚に」という指示を聞いていなかったようで原稿用紙の裏にまで続く作文を書いてしまったのですが、このときの担任の先生は叱る代わりに「こんなに長い作文を書くなんてすごい」と手放しで褒めてくれました。「でも次からは指示を聞いて守らなければいけないよ」と言われたりすらしませんでした。言葉の遅れや発音の不明瞭さがあって引っ込み思案だった私が自分の中に眠る力に気付かせてもらったときでしたし、課題には指示があること(あるいは社会にはルールがあること)を叱られたり罰せられたりすることによってではなく自分が大切に扱われたという経験を通じて知ったことは「学校(あるいは社会)というのは基本的に信頼していいものだ」という感覚を私に残したと思います。
偏食のある子どもが泣く泣く一口食べて褒められるときにも「苦手なことも頑張ればできる」というポジティブな感覚が目覚め、それは子どもを伸ばすことになるのではないかという考え方もあるでしょう。しかし、ポジティブに見えなくはないにしても、「苦手なことがあるままでは(頑張らなければ)褒められないのではないかと絶えず不安な子どもになる」「褒められることばかり気にするようになり、もともと好きだったことを自発的にしなくなる」「自分の興味や関心を押し殺してでもルールを守らないと叱責や罰を受けることになるような社会からはいっそ遠ざかるようになる」ことのほうがむしろ多いように思います。まずは、好きなものをしっかりと食べ元気にしていること(言い換えれば、ためらうことなく自発性を発揮し、好きなことを存分に行なっていること)を褒めましょう。更に、難しいことではありますが、偏食という形で自分のはっきりした好みを持っていること、給食を食べないという自分の意思をきっぱり表明して守っていること、これらのことも褒めなくてはいけないのだと思います。