満ち足りた幼年期
大人になってからいろいろと苦しいことがあっても何とかかろうじて踏みとどまってこれたのは、結局は自分の幼年期が満ち足りたものだったからだろうと思います。それを糧として人生という大地にしっかりと根をはったおかげで、私という木の幹は揺らがずにすんだのだ、と心から感じます。その時代のことをできるだけ遠くまで、さらに深くまで遡っても、「嫌だった」「辛かった」という記憶には不思議と行きあたりません。身体は弱かったですし、言葉は遅かったですし、夜尿もかなり遅くまでありましたが、ポジティブな視線に囲まれ、安心しきって暮らしていたような感覚しか残っていないのです。このことについて、何より親に感謝しています。
私たちが子どもに対してできることは「満ち足りた幼年期をできる限り保証すること」に尽きるのではないかと思います。それは私たちがするべきただ一つのことです。そしてそれは私たちが子どもに向ける「ポジティブな視線」とセットなのだと思います。
子育てに「療育」「医療」が関わることを否定はしません。「満ち足りた幼年期を保証する」にあたって他の多くの子どもとはっきりと異なる工夫した対応を必要とする子どもには、経験や知識をもって応援してくれる人の存在は重要です。ただ、日常的に近くにいる周囲の大人(まずは親、次に保育士や教師)が子どもにポジティブな視線を向けようと試行錯誤することの代わりはできません。あたかも代わりになることができるかのように(しかも試行錯誤するより優れたことができるかのように)療育や医療が振る舞ったために、あるいは、大人が試行錯誤しなくてもポジティブな視線を向けやすくなるような性質に子どもを変えることが可能であるかのように療育や医療が宣伝したために、「試行錯誤」が省略されることが増えているような気がしています。残念であり、携わる医療者の一人として責任を感じます。
試行錯誤しながら実は親も子どものことをよく理解しているし、園や学校でも工夫した対応がなされていて、あとはそれを「発達障害なのではないか?」などと思わずにポジティブな視線を向けさえすれば子どもは満ち足りた日々を送ることができるだろう、ということが少なくありません。もっと自信をもっていいのだと思います。