思いやりワクチン

デ・フェッラーリ広場(Piazza De Ferrari), ジェノヴァ

「お祖父ちゃんやお祖母ちゃん(高齢者)を守るために(中学生高校生に)新型コロナウイルスワクチンを」「弟や妹(新生児や年少乳児)を守るために(保育園幼稚園の年長さんに)百日咳ワクチンを」という啓発がなされます。しかし「他人を守るために自分の身体に異物を注射すること」がどこまで妥当で許容されるのか、あるいは「他人のために痛みを我慢すること」を子どもにどこまで強制して良いものなのかはとても難しい問題で、一つ一つ丁寧に考えていくしかありません。

その感染症により特定の年齢層の人が重症化するのであれば、その確率はどのくらいなのか? ワクチンを接種する子ども自身もその感染症により稀ながら重症化しうるのか(接種する子ども本人を守るメリットもあるのか)? ワクチンによりその感染症は十分に予防可能で、そのワクチンは十分に安全なのか? 重症化する特定の年齢層の人を守る手段として、その子どもへのワクチン接種は必要不可欠である(他に手段が無い)のか?

例えば、保育園幼稚園年長で定期接種として接種する麻疹風疹(MR)ワクチンは「他人(集団)を守るためのワクチン」であるとも言えますが、上述のような諸条件を十分に考えたうえでも、すべての子どもにやはり打ってもらわれなければいけないワクチンだと私は考えます。そのとき同時に百日咳ワクチン(三種あるいは四種混合ワクチン)を接種することも意義はあるし安全性は高いと考えますが、守るべき対象の新生児乳児も今では生後2カ月から百日咳ワクチン(五種混合ワクチン)を接種していることを考えると、更に年長児にも接種することで新生児乳児の重症例をどれくら減少させる効果があるのか、データは無いように思います(そもそも大人も百日咳にはなるのですから、大人が率先してワクチンを接種するべきでは?)。5-6歳で注射の痛みを受け容れるかどうかは全く平気な子どもと全く受け入れられない子どもと両極端ですから、全く平気な子どもに関しては、できるだけ接種するといいと思います。

一方で、「他人を守るためのワクチン」という概念の拡大には十分に注意を払わなければなりません。その感染症による重症化リスクが最も低い中学生高校生の年代に、この年代はそのワクチンによる心筋炎リスクが高いにも関わらず、「思いやりワクチン」などといった偽善に満ちた言葉を弄しながら接種を進めた(接種しないと自分は思いやりの無い子どもということになってしまうのではないかという心理を突いて、半ば強制した)ことが正しかったとは私には思えません。

感染症に罹るのはいけないことだ、他人に感染させてしまうことはあってはならないことだ、他人に感染させないためには自分の痛みくらい我慢しなければならない、と繰り返し聞かされた子ども達はどうなるでしょう。ワクチンの無い感染症やワクチンを接種していても罹ってしまう感染症はたくさんあり、自分が罹った後に周囲の人に感染「させて」重症化「させて」しまうことはある訳で、そのとき子ども達は正気でいられるのでしょうか。他人に迷惑をかけてはいけない、そのための痛みは我慢すべきだ、ということを突き詰めていくと、自分は生きているかぎり他人に迷惑をかけてしまう、そうしないためには生きていないほうがいい、そのための痛みは我慢すべきだ、ということになっていくのではないでしょうか。

「他人のためのワクチン接種」と子どもの自殺は関係無いのではないか、極端過ぎるのではないか。確かに直接の因果関係は無いでしょうが、「他人がどうこうではなく、あなた本人がそのまま尊重される」ということを事あるごとに子どもに伝えようとしない社会、子どもの意思を挫くことに無頓着な社会で、そのどちらも進んでいくのだろうと私は考えます。感染症に罹ることも他人に感染させてしてしまうこともなくすことはできないのだから仕方ない(そもそも子どもの前で感染「させる」というようなことを言わない)、まずはあなた自身(あなた自身の意思)を大切にしなさい、他人のために痛みを我慢するかどうかは自分で決めなさい、と子どもに繰り返し伝える社会を私は望みます。「百日咳で重症化する子どもがいない社会」と「子どもが自殺しない社会」とどちらか一つしか選べないのだとしたら、私は躊躇なく「子どもが自殺しない社会」を望みます。

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