イタリアのカオスに暮らして①

18年ほど前のイタリア留学中に、卒業大学の同窓会報から依頼されて書いた原稿を2回に分けて掲載したい。読み返してみて今更ながら当時こんなことを考えていたのかと思い出した。
「どこかに行ってしまおうか」当直明けの気怠さのうちにふと頭を過ることはないだろうか。それが悲壮な「行くしかないか」を経ていつしか気楽な「行ってしまおう」になった。勢いそのまま主要な小児病院に手当たり次第イタリア語のメールを書き元来の飽き易さからは今もって信じ難い粘り強さで交渉を続け夏休みには病院見学と面接に乗り込んでついに研修の許可を得た。
イタリアのジェノヴァという港町にある小児専門病院の小児神経精神科で臨床研修を始めて1年が経つ。この国で最も歴史があり全国から稀少疾患が集まる小児病院で貴重な臨床経験を積みながら折に触れて社会と医療の関わりに思いを巡らしつつ日々の暮らしにおいても新しい生を生き直そうと試みている。と書けば聞こえは良いが畢竟どこかの引退して旅を続けるサッカー選手のように早々と燃え尽きて逃げ出してしまったあとのモラトリアムなのだ。
緩やかに時間が流れる「人間的」な暮らしがあり街それぞれ人それぞれに表情豊かな「意外性」「多様性」がある。訪れる人を魅了して止まないこれらのイタリア的特質は社会生活の上ではその裏返しとしてそれぞれ「非効率的」「不確実性」「不統一性」としての一面を持っている。驚くほど高度な一面があるその医療についても「効率的」で「確実」で「統一」された現代的なそれとは程遠くこの国では電車と同様に検査結果も時間通りに来ることは無い。但しそうした混沌とした社会で生き抜くことに皆慣れていて医療も不思議とそこそこ機能しており例えば看護婦による定時の投薬など見ていると一見かなり杜撰でダブルチェックをしているのなど見たことがないのだがほぼすべての両親は子供の投薬内容を容量含めてすべて諳んじているし看護士ものんびりと薬を配って行くので間違いは決して多く無い。
社会の緩みや隙間を埋めるための知恵として身につけた多層的な人対人の関係のしたたかさと決して急がないそのリズムは小児医療そして恐らく老人医療いや医療全般に案外適しているもののように思える。寧ろ「現代的」な医療というものが基本的には「有用な働く男性」を中心とした社会の論理をもってそこからはみ出てくる存在をも管理しようとするものなのだと改めて思い知らされる。採血を嫌がり泣き叫ぶ子供に親が十分に言って聞かせる時間はあっていい。アングロサクソン世界であればこの過程を効率的に処理するプログラムや役職を創造して論文の一つでも書くのかもしれないがここ「南」では後に並ぶ他の家族も普段の生活からして何もせずぶらぶら待つことに慣れているのだから。