目標の立て間違い

目標を立て、それを達成するための方策を巡らし、結果を分析・評価し、必要に応じて方策を練り直す。これはとても大切なことで、「感染対策」や「少子化対策」にも是非それをして欲しいものですが、そもそもの目標の立て方が間違ったものである可能性はしばしば見逃されているように思います。
療育・保育・教育の場で、自閉スペクトラム症(ASD)の子どもに「興味のないことにも取り組めるようになる」、あるいは、注意欠如多動症(ADHD)の子どもに「話を集中して聞けるようになる」という目標が立てられているのをしばしば目にします。しかし、ASDの子どもは自分の視点で物事を見て自分の動機で行動することが自然な子どもです。ADHDの子どもはいま目の前にあること以外のことにも注意を巡らせることが自然な子どもです。その子どもにとっての自然な在り方ではないことを、少なくとも短期的な目標にするべきではないと私は思います。
達成させようとして無理をさせることで二次的な心の問題(反抗、抑うつなど)を生じることもありますし、何とか部分的に達成できたとしても所詮それは自然なことではないのですから、周囲への不信感や自身への不全感を残します。「達成できたときに褒められれば嬉しいはずで、ネガティブなことなどないはずだ」と思うのは大人の勝手な希望や解釈で、不登校やゲーム依存など、後で手痛いしっぺ返しを食うことになります。更に最近では、療育・保育・教育の側で無理な目標を立てておいて、「達成できないので医療機関で薬を処方してもらいなさい」と子どもと親が言われてしまうことすら稀ではないのです。
その子どもにとっての自然な在り方は極力そのままに、将来社会に出た際に必要となる知識や経験の学びを如何に保証するかが重要なのだと思います。「興味のないことに取り組めるようになる」ではなく「興味を持って取りむことが増えている」ことを目標にするべきですし、「話を集中して聞けるようになる」ではなく「話を集中して聞くことが増えている」ことを目標にするべきです。言葉のうえでの違いは僅かですが、根本の考え方が大きく異なることを理解していただきたいです。「~ができるようになる」というような目標を立てて本人を変えようとするのではなく、環境を整えたり周囲の人が対応を工夫したりした結果として「~をすることが増えている(学びが保証されている)」ことを目標にするのです。薬の処方はじめ医療が関わるのは、このような対応が既に十分になされていることが前提であって欲しいと私は考えています。