義務の免除と権利の制限

アルプス山麓にある城(Castello di Aymavilles), ヴァッレダオスタ州

アメリカの社会学者Rene’e C.Foxによる1989年の著作 The Sociology of Medicine(医療の社会学)をイタリア留学時代に買いました。文化が違うと医療が違うということを目の当たりにして、そのことを何とか消化したかったのだと思いますが、英文であるということで読むのは途中で挫折してしまいました。

この本の序説のところで、社会にとって医療とは何かということが考察されているのですが、未開社会から一貫して医療は、正常と異常を区別し、異常とされた人に対して社会的義務の一部を免除し、その代償としてそれらの人の社会的権利の一部を制限することにお墨付きを与える権限を担ってきたのだ、というようなことが述べられています。とても重たい言葉です。社会において果たさなければならない義務が増えるほどそれを果たせない人も増えてきて、そのような人には義務を免除する代わりに権利を制限しようということになり、その判断は医者に委ねられるのです。

気質(脳の働き方)が他の多くの子どもとやや異なっていて、園や学校で他の多くの子どもに通じる接し方が通じにくいようなとき、「医療機関を受診して診断がつくか判断してもらってきてください(診断がつくのなら配慮や支援をすしますが、診断がつかないのなら配慮や支援はできません)」と言われて来院するお子さんが少なくありません。一方で今の医療の考え方では「配慮や支援を必要とする状態であれば診断をする」というスタンスが基本です。状況をできるだけ丁寧に聴き取って「配慮や支援があるとこの子どもは確かに過ごし易くなりそうだ」という状況であればいったん暫定的に「診断がつく」ものとして配慮や支援をお願いし、その後の変化をみて、これからも様々な環境で配慮や支援を必要とするほどに際立った気質を持つ子どもであるか、もう少し重たい意味での「診断がつく」子どもであるかどうか判断していくことになります。

ただし、何だかモヤモヤしたものが残ります。まず、園や学校で子どもに課す社会的義務が増えれば増えるほど「それができない(それをしない)子ども」も増えますから、その一部を免除する必要が出てきて、医療で「診断を受ける」子どもが増えていきます。これだけ登園渋りや不登校が増えれば「子どもに社会的義務を課し過ぎているのではないか?それを変えなければならないのではないか?」とならなければいけないはずが、「療育や特別支援教育、内服治療などもあるのだから、いま子どもたちに課している社会的義務を変える必要はない」というようになってしまっているように思います。

また、「診断をされる」ということは社会的義務が免除される代わりに社会的権利が制限されるということです。制限のうち特に顕著なこととして、「発達障害の有無に関わらず一人の子どもとしてその心を顧みてもらう権利」が疎かにされてしまうように思えてなりません。「わからない、不安だ、どうしていいかわからない」という気持ちから出た行動は「かんしゃく」という解釈に姿を変え、「これが好きでたまらない、自分の思い描いたやり方を実直にやり通したい」という気持ちは「こだわり」という“症状”だと言われてしまいます。

子どもに課す社会的義務を無暗に増やすことを止め、子どもの社会的権利を最大限に尊重しなくてはなりません。園児に座って話を聞くことを強いる前に、園児が自然と聞き入るような楽しく興味深い話をしようとまずはしなくてはならないのです。泣き喚いている子どもがいたら、発達がどうのこうのと考える前に、「どうしたの?」あるいは「悔しかったね」と声をかけ、「どういう気持ちなのだろうか?」と想像することから始めるべきではないでしょうか。

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