論文という物語

前回ご紹介したイタリア人作家アントニオ・タブッキによる小説「供述によるとペレイラは」にこんな一節があります。「哲学は、真理を扱っているようでいて実は恐らく空想を語っている。一方で小説は、空想を扱っているようでいて実は恐らく真理を語っている」。
医学に関して、こんな風には言えないでしょうか? 「論文は、真理を扱っているようでいて実は恐らく物語を語っている。一方で臨床(それぞれの患者さんの経過)は、物語を扱っているようでいて実は恐らく真理を語っている」。
「あるワクチン」に関して、接種後に健康状態の悪化した人の割合が非接種群と比べて明らかに高いという結果は得られかった、という論文は「そのワクチンが健康状態悪化をもたらすことは誰に対しても絶対にない」とか「そのワクチンが原因で死亡した人は1人もいない」ということを保証するものではありません。「そんなことは論文をきちんと読んで、意味するところを正確に理解すれば当然わかることだろう」という声が上がると思いますが、ワクチン担当大臣がそのような発言をした(「絶対に安全」「1人も死んでいない」という“物語”を語った)とき、医学会は撤回を求めることをしませんでした。
ワクチン未接種で「ある感染症」に罹患し、急性脳症を合併して子どもが亡くなってしまったとき、その経過に立ち会った若手小児科医が「ワクチンを接種していればこんなことにはならなかったかもしれない、子どもたちへのワクチン接種を推進していかなければ」と思うことは大いに理解できます。一方で、小児科の大学教授が「恐れていたことが起きてしまった、子どもたちへのワクチン接種を推進していかなければ」とマスコミに発言することは軽率に過ぎると私は考えます。そのワクチンの接種率が子どもでは数%と僅かで、圧倒的多数の子どもが接種していなかったのであれば、ワクチンが急性脳症を予防する効果があってもなくてもワクチン未接種+急性脳症という組み合わせは当然多くなります。ワクチン接種群と非接種群とで急性脳症の罹患率を比較して統計的にはっきりと接種群で急性脳症の罹患が少ないことがわかってはじめて「子どもたちへのワクチン接種を推進していかなければ」という“物語”は語られるべきなのだと思います。
真理と物語、論文と臨床、どちらも大切で、一般論を絶対視して現実を軽んじてはいけませんし、現実が与える印象に引き摺られて安易に一般化することもしないよう注意しなければいけないのだと思います。