自ら主体的に学ぶ

大杉谷、千尋の滝

「子どもの文化人類学(原ひろ子著、ちくま学芸文庫」を読みました。“子ども”あるいは“子育て”について私たちが当然と思っていることが、他の文化圏ではそうではないことがあるとよくわかる本で、学術的というよりはエッセーなので、専門的な知識がなくてもすらすらと読むことができました。

著者の研究対象の一つに、カナダ極北部の原住民で、今も狩猟生活を営む「ヘヤー・インディアン」がありました。その部族では、子どもも大人も、何かを習得するとき、「誰かから教わる(誰かに教える)」という概念がなく、「自分で観察し、やってみて、自分で修正しながら、覚える」ことが当たり前のことになっているのだそうです。子どもに対して大人は行動の大枠を示し、重大な危険がないように見守り、一人ひとりの子どもをとてもよく観察して、コメントは積極的にするのですが、「教えよう」とすることはないのでした。子どもたちは「よく観る」力を磨いていき、自分で納得いくまで粘り強く取り組む性質となっていく(私たちの社会ではそのような子どもたちを「視覚優位である」「凸凹がある」「切り替えが悪い」などと呼んで「診断」したり「療育」したりしてしまいます)のですが、そのようにして育った彼らは「自分自身で主体的にまわりの世界と接し、自分の世界を築く喜びを知っている人間の美しさにあふれ、大人も子どももそれぞれ自信に満ちて生き生きしている」と著者は感じたそうです(何という美しい感想でしょう)。

私たちの社会でも、幼児から大学生まで、教育の現場において、「自ら主体的に学ぶ」ということが方針としてしばしば掲げられるように思います。しかし、短期的に「できることを増やす」という点については非能率的で時間がかかるために大人の側にゆとりが必要であることや、子どもたちのあいだに大きなばらつきが出ることになるために一見すると結果が平等にならないことを受け入れる覚悟がないままにそれをしているために、「自ら主体的に」を十分に保証しきれていない場合が少なくないように見えます。そもそも私たちの子育ては自らの子どもに対して「こうあって欲しい」「こうあるべきだ」が強すぎて、一人ひとりの子どもをよく観察して「どのような子どもなのか(どのように物事を学んでいく子どもなのか)」をありのままに理解しようとする姿勢があまりにも希薄であり、それどころか、保育・教育・療育・医療の専門家と言われる立場からもそのような見方が提供されることは稀であるのが現実です(むしろ親の「こうあって欲しい」「こうあるべきだ」という気持ちを煽っていることの方が多いように感じます)。その根底として、ヘヤ―・インディアンの社会が前提としている、「そもそも他人に対して、それが自らの子どもであっても、考えや行動を指示・命令できるものではない」という徹底した世界観を、私たちは持ち合わせないのだと思います。

狩猟民族ではなく農耕民族であった私たちは、「誰かから教わる(誰かに教える)」ということを通じて、協働のなかで役割をコンスタントに果たせる人を能率的に生み出していく必要性があり、そのような「教育」に馴染んできたのかもしれません。メリットも当然あるでしょうし、社会に馴染んだやり方を活かすことは重要です。ですが、それを始めるのは、小学校中学年~高学年以降でいいのではないか(むしろ、その年齢以降は、もっと厳しくしてもいいのではないか)と思います。幼児期~小学校低学年は、自分で納得いくまで好奇心の赴くままに好きなことを存分に追及する時間を保証され、それ以降の年齢、特に高校生~大学生は、わざわざactive learningなどという英語を使われるまでもなく、そんなこと(学ぶとは自ら主体的にすることであるということ)は当たり前であるという前提のうえで、膨大な「教わる」学習にも取り組む(それが性分に合わない子どもは、勉強以外のことで生きていく)、というのが理にかなったやり方ではないかと私は考えます。

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