努力義務
報道などで「あるワクチンの接種に努力義務が課されることになった」という言われ方を耳にされたことと思います。特定のワクチン接種についてここで意見を述べることは控えますし、ここでいう「努力義務」がこの文脈で実際に何を意味しているかはいったん置いておきますが、「努力」と「義務」の関係についてよく考え、この2つの言葉が組み合わさって広く使われていかないか注意をしておきたいと思います。
その社会を律する共通の宗教や倫理が無いとき、「不本意だけれど努力する・頑張る」「相手に合わせる・我慢する」ことは社会を成立させるためにある程度必要なのかもしれません(法律だけでは社会は成立しないのかもしれません)。しかし本来は「努力」とは自発的に行なうことで、他人や社会から強制されたり義務付けられたりすることではないと思います。注意をしていないと、「努力」の「義務」は心という内面の領域(見えない領域)に知らず知らず無制限に拡大し、何とも堅苦しい世の中になってしまいます。
苦手なことにも頑張って取り組まなければならないという「努力」の「義務」が、学校だけでなく今では保育園幼稚園の時期から、あまりにも強調されすぎているように感じます。高校生以上となり大人にもなると自発的な努力が発揮できる進路・環境を自ら選ぶことができ、また選ぶべきなのですが、保育園幼稚園や小学校中学校は子どもの側では環境を選べないのですから、子どもが不本意な努力を義務としてしなければならない場面が増えすぎないよう周囲の大人が工夫してあげる必要があります。子どもの頃から「努力」が「義務」になっていることで、自発的に努力することをしなくなってしまうのではないかと私は恐れます。同じことが夏休みの「自由研究」にも言えて、もちろん「課題が自由な研究」という意味ではありますが、それが宿題(=義務)になってしまって、それをするかしないか選ぶ自由を保障されなかった子どもたちは、自発的に人生を研究(探究)しなくなっていくのではないかと思います。